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第十編 新制早稲田大学の本舞台

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第十九章 紛争渦中の総長交代

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一 大浜総長の退陣

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 「学費・学館紛争」が大詰めを迎えていた昭和四十一年四月十二日、上野精養軒で恒例の春季校友大会が開催された。この席における大浜総長の挨拶について、校友会誌は次のように記すのみである。

大浜総長は招待者を紹介した後、「例年なら大学の近況当面の明かるい報告をして、みなさんの支援と協力をお願いするのだが、今年は遺憾ながら、学園紛争の暗いニュースを伝えなければならないのは誠に申し訳ない」と前置きして、紛争の経過を説明した。 (『早稲田学報』昭和四十一年五月発行 第七六一号 五四頁)

しかし、評議員会長として列席していた阿部賢一は後年、「その校友を前にして、大浜総長は大学の苦境にあることを説明し、進退きわまっている、と悲痛な演説をして校友を驚かせた」(阿部賢一『新聞と大学の間』二〇四頁)と回想している。

 進退きわまるまでに大浜総長を追い詰めたものは、理事会の内部分裂と各学部の理事会からの離反であり、いずれも紛争の収拾をめぐって生じた事態であった。

理事会自体も内部的に解体し始めていた。学部の教授会ないし教員会と理事会のパイプも不十分にしか機能しなかった。理事会と教職員組合の意思疎通も断たれていた。これらの日々、新聞記者の夜討ち朝駆け、早大関係者の訪問、電話連絡が大浜の肉体的な負担となるのをおそれた周囲の配慮によって、大浜は、都内のホテルに泊って、連日関係者を招いて対策をねり、情勢を分析していたが、大学という団体におけるマネージメント――個人の権限と責任が、混乱の極に達してしまったことを痛いほどに知った。 (大浜信泉伝記刊行委員会『大浜信泉』 一六六頁)

事ここに至った背景に、本編第十七章に詳述した二月四日の総長説明会の後遺症があることは言うまでもない。総長の強硬とも受け取れる発言に失望し、大学執行部の姿勢に不満を抱いたのは、政治的な学生だけではなかった。その意味でかかる苦境を産み出した責の一端が総長自身にあったことは疑いを容れず、既に村井資長と戸川行男の両常任理事は、総長と全理事者の更迭を再三に亘って進言していたのである。

 四月二十三日、大隈会館で開かれた臨時学部長会の席上、大浜総長は初めて公式に辞意を表明した。五月七日午前には、教職員約千五百人を大隈大講堂に集めて辞任の挨拶をしている。

 総長自身はこの辞任を、局面打開の捨石にしようと考えていた。辞任が正式に承認された五月十日の臨時評議員会後に、大浜は次のような談話を発表している。

私が退任を決意したのは、事態の局面を打開し、人心を一新する契機をつくるためであって、世間に伝えられているように世俗的意味におけるいわゆる引責辞職ではない。責任論の観点からいえば、この時点において、退任することは決して責任を果すことではなく、むしろ責任の回避だとの誹りをまぬがれないであろう。それにもかかわらず、あえて退任を決意したのは、学内に危機感が乏しく、足並みが乱れる惧れがあり自覚と結束を促すには理事者の更迭により人心を一新する必要を痛感したからである。 (『早稲田』昭和四十一年五月十八日号)

また、六月には「総長退任に際して」という一文の中で、次のように述べている。

任期の満了(来る九月二十日)をまたずに退任するに至ったのは、むろん今次の紛争に関連してのことである。退任は当然のことで、むしろおそきに失したという考えの方もあるであろう。また、他面、紛争が解決してからならともかく、混乱のさなかに退陣するのは、責任の逃避であって、決して責任を果す所以ではないとの意見もある。事態の処理にあたって不手際な点が多かったことは認めるが、しかし退任を決意したのは、必ずしも世俗的の引責辞職の意味ではなく、局面を打開し、人心を一新するには責任者が交替することを適当と考えたからである。学生は総長を権力の象徴者に擬し、大学のことに関する限り、なんでもその思うとおりになるいわばオールマイティのように誤解しているらしい。そこで総長の交替が、局面転換の契機になるであろうと考える人がすくなくないのも無理がない。

今次の紛争は、学費の値上げに対する反対と、学生会館の管理をめぐる問題に端を発したがそれは表面上の闘争目標にすぎないのであって、現時点においてみれば、学生の関心はむしろ大学教育に対する不満と不信感にあるとみてよいであろう。それこそ、大学の危機というほかはあるまい。それにもかかわらず、学内には危機感が乏しい。教員の一人ひとりが、批判者ないしは評論家の立場をはなれて、自からの問題として取組むのでなければ、大学を危機から救うことはできない。人心一新の必要があるとすれば、むしろその辺に重点をおくべきであろう。

(『早稲田学報』昭和四十一年六月発行 第七六二号 八―九頁)

 ここに重ねて指摘されている学内における危機感の乏しさは、辞任を決意した大浜の隔靴搔痒の思いをよく言い表している。自ら先頭に立って紛争の収拾に当ろうとしても、もはや理事会をはじめとする大学執行部から強力な支持を得られる状況になく、大浜に代って事態を解決する能力と意思とを併せ持つ人物も、少くとも学内には見出し難かった。大浜が紛争の泥沼化に意気阻喪するような人物でなかったことは、総長十二年の足跡が雄弁に証明するところである。さりとて万策尽きて職務を放擲するような人物でもなかったことは、退任後における沖縄問題等への献身的活躍を見れば誰しも認めるところであろう。この辞任は――結果論ではあるが――事態を解決に向わしめる究極の秘策であった。重責を一身に負わされる形になっていた大浜総長が退陣すれば、重石を失って矢面に立つことになる執行部の面々は、次の一手を考えざるを得なくなる。次の一手が何であれ、それは何らかの意味で流れを変えるであろう。取敢えず身を捨てて学内に危機感を醸成し、事態の深刻さに警鐘を鳴らすというのが、この秘策の中身であった。そしてそれがこの時の選択としては正鵠を射た策であったことが、爾後の経過によって示されたのである。

二 阿部賢一の総長代行就任

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 大浜総長の辞意表明を承けて後任者が問題になるに及び、多くの教員・評議員や校友は、評議員会長の阿部賢一に白羽の矢を立てた。学外者に総長職を委ねるのは学苑では異例の事柄に属する。大学の自治を確保するために、学内から総長を推戴することが既に慣例化していた。にも拘らずこの時、学外者にして評議員会長たる阿部の見識と人格に大方の期待が寄せられたのは、学内にもはや適任者が得られなかったことを意味する。それを大浜は見越していた。実は、学部長会での辞意表明を大浜に促したのは阿部であり、阿部に後任を引き受ける決意を促したのは大浜だったのである。そして阿部は、「この難局は誰かが犠牲を払わずしては、とうてい打開できるものではないだろうとひそかに考えざるを得なくなった。といって他に誰もこのにがい盃を飲む者が出そうにない。やむを得ない。私がそれを飲み干そうと心で決めた」(『新聞と大学の間』二〇七頁)のであった。

 四十一年五月十日午後一時から、銀座東急ホテル二階の須磨・明石の間において臨時評議員会が催された。この時の議事録によると、評議員会は先ず理事市川繁弥の辞任を認め、阿部賢一を校規第十三条第二項第二号による理事に選任した。次いで、総長から阿部理事を常任理事とし、総長の代理または代行の第一順位に指名したことが報告された。阿部の後任の評議員会長に中山均が選出された後、大浜総長が総長を辞任したい旨発言し、承認された。これにより、新たに総長代行となった阿部常任理事が就任の挨拶をした。

 これは当時の校規に則った手続であるが、やや解りにくいところがあるかもしれない。そこで順序を逆にして説明するならば以下の通りである。校規第十七条には「総長に事故があるとき、又は総長が欠けたときは、総長があらかじめ定めた順位に従い、常任理事が臨時に総長の職務を代理し、又は総長の職務を行う」とある。従って阿部が総長職を代行するためには、大浜総長が辞任する前に常任理事となっている必要があった。総長から常任理事に指名されるには、評議員会によって理事に選任されていなければならない。理事は「十一人以内」と定められており、この時空席は存在しなかった。そこで、「この法人の教職員でない評議員」から選出された市川理事が辞任することによって空席を生ぜしめ、その補充人事の形で同資格の阿部が理事に選任されたわけである。

 阿部賢一は明治二十三年八月二十八日徳島県に生れ、同志社中学を経て同四十五年学苑大学部政治経済学科を卒業した。その後十年間同志社大学法学部で講師・教授を務めたが、その間大正五年から二年間アメリカ合衆国のジョンズ・ホプキンズ大学、コロンビア大学の各大学院に留学している。大正十一年、田中穂積の懇請で早稲田に戻り、昭和十一年まで政治経済学部教授として教壇に立ち、財政学、経済学等を講じた。主著『財政学』(大正十三年初版)は、大内兵衛が東京帝国大学で使う教科書ともなった。大正十五年に、論文「租税の理念と其分配原理」で経済学博士の学位を取得している。学苑の経済学博士号授与は、これを以て初例とする。

 教鞭を執る傍ら、大正十五年より岳父徳富蘇峰の主宰した国民新聞社記者、昭和四年からは東京日日新聞社(毎日新聞社)の論説委員、経済部長、主筆、主幹を歴任し、同二十一年に退社した後はサンケイ新聞社の編集主幹に招かれた。昭和十六年十二月八日、日米開戦を大本営発表よりも早く報じた『毎日新聞』の一大スクープは、ジャーナリストとしての阿部が生涯の誇りとした殊勲である。昭和二十二年公職追放を受けたが、二十五年に解除され、翌二十六年から十年間、講師として再び学苑の教壇に立ち、二十九年には常任理事に任じられた。三十七年理事を退くとともに、評議員会長に就任した。その間三十年からは、東京都公安委員の職を奉じている。

 臨時評議員会終了後、阿部総長代行は「凍りついた感情をやわらげよう」と題する次の談話を発表した。

現在、学園には南氷洋の氷が固まったような感情がわだかまっているが、それをどうしてとくかを考えている。凍り付いた感情をやわらげて血のかよった、呼吸の合った学園にしたい。そのために教授団も一緒になって頑張ってもらいたい。わだかまった感情をときほぐすところに問題解決のチャンスがあると考える。

学生は勉強したいであろうし、早稲田大学の学生であるという自覚はすべての学生が持っているだろう。教職員の学生を愛する気持は一つであり、学生には愛する学園の意識があるだろう。効果はわからないが、その一点に学園関係者の気持を結集させる努力をしたい。このことについては教員・職員のすべての協力が得られると思う。学生の気持がなごんでくれば、おのずと問題解決の望みも出てくる。

大学の方針は決定しているが、その運用については考えなおす点があるかさぐってみたい。いやしくも学問の府において対立した大きな勢力があることは許されないことで、評議員会と理事会は一体となって進んできた。これまでの理事者全員が辞任となると、新らしい理事者を選ぶのは大変困難だ。大役を引き受けてみると、大きな責任を感ずる。清新で清潔で、公平な、少なくとも六十点合格ぐらいの体制をつくらねばならないと思う。具体的な問題を新らしい感覚でとらえたい。学部長、教授、学生の意見を聞くことが必要だと思うので、新らしい理事会ができれば、自由に学生の中へも出かけて行きたい。

氷結した感情をとくためには拙速主義では駄目で、時間をかけた方が効果がある。機動隊の導入はさけるべきだ。私は都の公安委員をつとめているが、これは民主警察が権力を逸脱しないように見守る都民の代表の役であって、かつて警察官であったものはなれないし、政党色のある人物もさけることになっており、警視庁の公安部と混同されては困る。自治行政のことをもっと調べてもらいたい。 (『早稲田』昭和四十一年五月十八日号)

 ところで、総長代行に就任が決まると、阿部は当面の課題であるバリケード・ストライキ紛争の解決策につき、知友に参考意見を徴している。「刃傷沙汰」を起す学生をテロリスト集団と看做し、「警視庁にまかせたらいい」とする進言に対し、阿部は怒って、「キミはそういうが、おれは彼らも立派な学生だと思う。話し合ってみる。……留置場にぶち込んで、将来も警察の監視下においていいのか」と答えたという(藤川靖夫「聞き書き/阿部先生と六十年――その『公と私』断片」『正論』昭和五十八年十一月号 一九八頁)。

 学苑のトップに立つ者として、毅然とした態度を以て事に処するのは当然である。けれどもそれは、必要条件であって十分条件ではない。「正しい」ことを四角四面に説くリーダーに、人は欣々然としてつき従うものであろうか。ましてや従うべき者の大多数が純情多感な世代であるとすれば、これは甚だ疑問である。阿部は自らが非常時のリーダーであることを心得ていた。紛争の渦中にあって学生に接するには、寛容さと宥恕の念を欠いてはいけない。大所高所に立って大学の将来を考える一方で、同時に学生の前途を思いやる雅量を示すことが、依って以て学苑を危機の淵から救うのである。

三 阿部新体制の発足

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 阿部が総長代行として初登校したのは、臨時評議員会があった翌日の五月十一日であった。その日の朝、総長代行はNHKの生番組「スタジオ一〇二」に出てインタビューを受け、それから大学に行ってはみたものの、荒らされた本部は清掃中であったため、取敢えず大隈会館で昼食をすませた。阿部が休息していた所へ二人の学生がやって来て、学生が集まっているから顔を出してくれるように申し入れた。周囲にいた教職員の不安と制止を振り切って本部前に来てみると、そこには壇がしつらえられて約二千人の学生が総長代行の登場を待っていた。午後三時半、阿部総長代行はここで初めて学生に所信表明をすることになる。それが公式の場での発言でなかったことは言うに及ばず、殆どハプニングに近いものであったことは確かであるが、総長代行の学生に対する最初の談話として、ここに全文を引用するに値しよう。

学校の方もずいぶんヘマをやったが諸君にも苦労をかけるね。僕はひっぱり出されたような状態で総長代行にならざるを得なかったが、しかし五十年前に卒業した先輩として何とか今の難局を諸君とともに打開したい。諸君の一人一人がどういう思想を持とうがどういうことをやろうが――あまり乱暴は困るが――それは諸君の自由だ。しかし、早稲田大学は諸君によって守られなければならない大学です。そのことをよく考えて欲しい。僕から見れば諸君は孫かひ孫のようなものだ。僕にも孫がいるが、エネルギーをもて余し、時として爆発しすぎて困る。しかし、僕は誰よりも諸君を愛している。その愛情をもって諸君の言わんとするところをよく理解し、正しいことを通すことで大学の名誉と信用を回復したい。そういう考えで、今後直面するいろいろな問題を解決していきたいと思います。

じっくり話し合おうではないか。まだ理事も決らず、私個人としての話ししかできないが、諸君とともに大学の名誉と信用を取り戻そう。これは阿部個人でできるものではなく先生方のご助力を期待しているが、しかし学生諸君と一緒になってでなければことは容易ではないのだ。大学と学生諸君との間の冷たく凍りついてしまった今の心をなんとか打ち破ってもらいたい。そうした上ではじめて具体的な問題の解決が可能と思う。そのような考えにたって今日、諸君と顔を合わせているのであり、阿部老人の顔を見知ってほしい。今日は芝居でいえば顔見せであって何かセリフを言えとか、何かおどれといったところで無理だ。これからよく考えてみます。僕は年をとっても物分りのいい人になりたい。諸君も物分りのいい人になってもらいたい。その気持が互にあれば解決できないはずがない。諸君とはまたしばしば会う機会があると思います。

(『早稲田』昭和四十一年五月十八日号)

この時、学生の雰囲気に変化が起きた。微笑を浮かべ、拍手をする学生もいた。阿部総長代行は、「これならいけそうだ」と思ったという。いわゆる百五十五日闘争は以後収束の方向に向うが、学生の側から流れの変った画期を求めるならば、この顔見せの談話がそれであったとして大過あるまい。後年この「第一声」を『新聞と大学の間』に再録する際、阿部は文章に多少の改訂を加え、「僕は誰よりも諸君を愛している。その愛情をもって」というくだりは、「僕は誰よりも諸君を信頼している。その信頼をもって」(二〇九頁)となっている。この改訂は一種の照れ隠しかもしれないが、阿部総長代行の初心が学生に衒いもなく注ぐ愛情にあったことを、却って明瞭に示すものである。

 新理事会を組織するに当り、阿部は「学生の尊敬を得ている人、一致団結のできる人、いかなる難局に遭うとも怖れない勇気ある人」(同書二一一頁)を選ぶことに留意した。人選は難航したが、五月十三日に東京会館で開かれた評議員会継続会において、既に辞任した市川繁弥を除く九名の理事と安念精一監事の辞任が認められ、新理事会が発足した。その陣容は左の如くである。

理事 高木純一(常任、教務担当)、渡鶴一(常任、企画・施設・調度担当)、保田順三郎(常任、庶務一般)、青木茂男(就職担当)、外岡茂十郎(給与担当)、斎藤一寛(同前)、時岡孝行、黒板駿策(財務担当)、佐藤欣治

監事 久保九助、毛受信雄

このうち、前理事会からの重任者は毛受監事だけである。

 五月十六日、阿部総長代行は「最終態度決定の時」と題する次の談話を発表した。公式には、これが学生に対する最初の所信表明ということになる。

今回早稲田大学総長の職務を代行するにあたって、私が深く心に決したことは大学にあたたかい人間関係を回復することであった。現在校舎の入口にはこの関係を否定するように冷たい障害物が立ちはだかり、早稲田を愛する人たちを悲しませている。四ヵ月にわたる紛争の過程において、およそ考えうるすべての主張は出つくしたはずである。それらはいずれもかたい信念にもとづくものであろうから、安易な妥協はできないと思う。それはそれで正しいと思うが、さりとて大学の生命を保つためには、大学本来の使命である教育と研究を長期にわたって阻止していることは許せない。そこにはおのずから規律が必要であるし犯してはならないルールがあるのは当然である。学生諸君は一日もはやく、一人のこらず登校し、大学の庭に見られる現実を直視し、慎重に考慮するとともに最終の期限である五月二十三日(月)を目標に正規の授業が開始されるように協力しなければなるまい。授業を行なう一方で話し合いを続けることは決して不可能ではない。極端な闘争手段によらなくても、何時でも話し合うつもりであるから、大学を信じ、諸君の良識による局面の打開を考えてほしい。未だ授業の始っていない学部の学生諸君は、すでに各自に投票などの民主的な方法によって授業開始の可否をきめようとしている。ここは大学であるから、どんな立場であろうと、物理的な手段を用いることは最も拙劣な方法である。良識ある諸君は大学生らしく、理性にもとづく、静かな、かつ美事な行動をもって事にあたるよう切望する。重ねていうならば、今が最終の態度決定の時である。

(『早稲田』昭和四十一年五月二十一日号)

当初この談話は、「学生諸君」と題して学内に掲示された。ここで言及されている五月二十三日というタイム・リミットは、前章で既述したように深長な意味を持っていた。「学校教育法」には「六箇月以上授業を行わなかつたとき」に、「監督庁は、学校の閉鎖を命ずることができる」との定めがあり、早稲田のバリケード・ストライキは一週間後に六ヵ月を迎えようとしている。事態は切迫していたのである。切迫していたにも拘らず、この談話は不思議なほどに余裕を漂わせ、満腔の優しさを以て学生を喩している。学苑が危急存亡の時機を迎え、収拾の目途も立たぬ混乱に陥ったときに、かかる余裕と優しさとは大学人に求めて得難いものの一つである。

 五月十七日午前、阿部総長代行は他の学部に先んじて態度を軟化させていた商学部学生を記念会堂に集めて挨拶をし、学生らと話し合う機会を持った。同日午後には大隈大講堂で教職員に対して就任の挨拶をした。阿部はここで自らを九回裏のピンチ・ヒッターになぞらえている。九回裏二死満塁、のっぴきならぬ大勝負である。そして「機動隊はぜったいに入れない」と「公約」したのも、この日この場においてであった。

四 阿部総長の登場

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 大浜前総長の任期は九月二十日を以て満了することになっていた。従って阿部総長代行の職務もこの日を以て終る。代行としてバッター・ボックスに立っていた四ヵ月の間に、いわゆる百五十五日闘争が一応の終結を見て、阿部がピンチ・ヒッターとして期待された役割を遺憾なく演じたことは、前章で既述した通りである。代行の二文字を削り、レギュラーの打席に着くためには、総長選挙の洗礼を受けなければならなかった。

 総長選挙については、七月二十六日付で「総長等役員選挙日程について」との通知が各個所長宛に出され、九月十六日までに「総長選挙規則」第三条第一項による総長選挙人が選出・通知された。翌十七日に開かれた総長選挙人会で阿部賢一は第八代総長に選出された。総長就任を機に理事会の陣容にも一部入替えが行われ、左の如くとなった。

理事 高木純一(常任、教務担当)、渡鶴一(常任、施設担当)、望月威(常任、財務担当)、保田順三郎(常任、庶務担当)、斎藤一寛(給与担当)、外岡茂十郎(法規担当)、時岡孝行(就職担当)、佐藤欣治、前川喜作

監事 久保九助、黒板駿策

総長職務の代行順位は、第一順位高木、第二順位渡と決められ、また十一月には給与担当理事として宇野政雄が追加嘱任された。

 十月五日、記念会堂において総長就任式が挙行された。総長就任に際し、阿部は次のように心境を述べている。

最近、早稲田大学の歴史を調べていましたところ、大正六年六月に高田先生の総長就任の辞を見て、身につまされる思いをさせられました。当時は第一次世界大戦の後をうけて国際平和論と軍国論が対立し、それが学園内にも反映してそれぞれの学生の研究団体ができていわゆる早大事件を発生させました。そのさなかに高田先生は総長に就任されたのであります。先生は門下の塩沢学長の辞任に伴って総長になられたのを、順序からいえば時代錯誤であるが、これも已むを得ないことで、過去の学園の歴史をとりまとめてこれを新時代の人物に引渡すことを自分の使命であると心得ている、自分はいま六十四才であるが、この老骨を引提げて学園の重責に当るについて教職員校友学生の一致団結の精神と後援によってこの職責を全うするより外に道はない、大過なくこの職責を全うするよう返す返すも懇願する次第でありますというのが、先生のお言葉の意味でありました。学恩の深い師と微小な私の今の心境を比較するのでは勿論ありませんが、置かれている環境と気持の間に共通のものがあるように感じられるのです。いわゆる紛争が起らなかったら私が顔を出す必要はなかったでしょう。夢にも思わなかったことですから――年齢からいえば高田先生の当時より一回りも上の私です。順序からいえば新人が総長職につくべきなのです。しかし、その事情はどうであれ重任を帯びた以上は全力を尽して職責を全うしなければなりません。私は高田先生の一門下として心境を同うしているように感じている次第なのであります。(『早稲田学報』昭和四十一年十月発行 第七六五号 二頁)

阿部総長はこのように、敬慕の念止むことのない高田早苗の顰に倣って職責を全うする覚悟であったが、次編第二章で説述する如く昭和四十三年四月、あたかも高田総長がそうであったように、任期満了を待たずに辞任することになろうとは、この時には思いもよらなかったに違いない。